STORY

ストーリー

思い出は、誰のもの?

この問いに真正面から向き合うようになったのは、
今から約5年前のことでした。
感染症によって社会が一斉に止まり、
学校からもカメラマンの姿が消えたあの頃。
行事は中止され、撮影もできず、
「このまま、子どもたちは思い出を
残せないまま卒業していくのだろうか」と、
焦りと無力感に包まれていました。

けれど、ふと立ち止まって考えたのです。
そもそも、思い出とは行事だけのものなのだろうか。
教室のざわめきや昼休みの光景、
何気ないやりとりや笑い声。
むしろ、そうした日常にこそ、
子どもたちの記憶は
積み重なっているのではないだろうか。

そう考えた時、私たちはハッと気づかされました。
知らないうちに、
私たちは“思い出”の主役であるはずの子どもたちから、
そのほとんどを奪ってきてしまったことに。

カメラマンとして、
毎年同じ行事を丁寧に撮影してきました。
けれど、そこには学校生活の大半を占める
「日常」が欠けていたのです。
「行事さえ記録していればいい」という思い込みに、
私たちはとらわれていました。

思い出の持ち主は、
間違いなく子どもたち本人です。
たくさんの思い出が
毎日生まれていることに気づいていながら、
それを見過ごすことは
私たちにはできませんでした。
今まで知らずに奪ってきてしまっていた
「日常」という思い出を、
これからは子どもたちへと「返す」こと。
それこそが、
私たちの新たな課題になったのです。

日常を、どう残すのか。

では、どうすれば子どもたちの日常を記録できるのか。
200日以上ある学校生活を、
プロのカメラマンがすべて撮影するのは
現実的ではありません。
当時はそもそも、
外部の人間が学校に立ち入ることすら
難しい状況でした。

そんなとき、あるひとつのアイデアが浮かびました。

——子どもたち自身に
撮ってもらえばいいのではないか。

教室にカメラを置き、
日々の中で子どもたちが手に取って撮影する。
それならば、外部の目では捉えきれない瞬間を、
自然なかたちで記録できるかもしれない。
子どもたちの視点で切り取られた写真には、
まだ誰も見たことのない魅力がきっと詰まっている。

その直感が、
ヒトメモリの「最初の種」となりました。

ある小学校の先生の協力を得て、
試験的に1ヶ月間、
教室にカメラを設置させてもらいました。
機材も教材も準備不足で、
子どもたちへの説明も十分とはいえませんでした。
それでも、「とにかくやってみよう」と、
想いだけを頼りに始めた試みでした。

試用期間が終わり、
子どもたちが撮りためた写真を
一枚ずつ確認していく日。
それは、このアイデアが机上の空論か、
本当に価値あるものなのかを
確かめる瞬間でもありました。

最初の数枚で、私たちは言葉を失いました。
ふざけ合う姿、やさしいまなざし、気の抜けた瞬間。
構図もピントも整っていない写真が、
どれも強く心を打ちました。

「これが見たかったんだ……」

思わず声を上げ、仲間を呼びました。
そこに写っていたのは、
子どもたちが子どもたちにしか
見せない世界だったのです。

写真の「上手さ」ではなく、
「その子らしさ」へ

あの夜、私たちは確信しました。
これはただの空想ではない。
形にすべき、確かな価値があると。

写真の正しさや技術ではなく、
子どもたちの日常を、
その視点から切り取るということ。
それこそが、「思い出をつくる」本質なのだと。
こうして、ヒトメモリは生まれました。

子どもたち自身がシャッターを切り、
自分たちの世界を自分たちの手で写す。
その写真を私たちが整え、
一冊の卒業アルバムに仕立てる。
それが、ヒトメモリの原形です。



未来に残したい「まなざし」

サービスを始めた当初は、
「教室にカメラなんて無理」
「実績がないと受け入れられない」といった声も多く、
契約目前まで進んでも
叶わないことが何度もありました。

それでも、新しい挑戦を応援してくれる先生や、
子どもたちのために
柔軟に動いてくださる学校との出会いが、
少しずつ道をひらいてくれました。

あの数校が背中を押してくれなければ、
今のヒトメモリは存在しません。
感謝とともに、あの出会いは、
私たちにとって小さな奇跡だったと思っています。

プロのカメラマンには写せない世界が、
たしかにあります。
普段は見えない、子どもたちだけの時間と空気。
それを記録し、未来へ手渡してくれるのは、
子どもたちならではの
「まなざし」で撮られた写真だと、
私たちは信じています。

これが、ヒトメモリのはじまりの話。
そしてこれからも変わらない、私たちの原点です。